最近、死に関する倫理学的考察のレポートを書きました。

評価についてはおいといて。

凩です。

私が始めて死んだ人間を見たのは

小学校高学年のときの祖母でしたかね。

葬式のときでした。確かお通夜は行っていません。

子ども心にも、亡骸を見て

生きた人間にはないような感じ?があったのを覚えています。

こういうのは失礼ですが、

一回見たらもういい、という感じで

すぐに目をそらしたのを覚えています。

私の所属しているゼミで、世間話程度ですが戦争経験者の話が出て、

戦争の経験を語れる人はだんだん減ってゆき、

いつかいなくなってしまうだろうという話がありました。

私も考えたことはあります。

実体験がなくなることで現実味がなくなってしまうということ。

でも戦争はいけません。

人間同士が殺し合い、多くの愛すべき人が死ぬのですから。

泣き止まない赤子を絞め殺す母親もいた時代です。

生きるためとはいえ、どうかしている。

その母親が、じゃなくて、その状況が。

戦争なんて絶対いけない。たとえ景気が良くなって技術革新が起きたとしても。

その後に何が残ったのかは歴史が明らかにしています。

戦争の話ばかりになってしまいましたが、殺人もあってはならない。

死刑も、出来れば嫌です。

でも、愛する人を殺された遺族の人にとって、のうのうと生きている殺人者を許すことは簡単ではないと思います。

死を、解決策にしてはならない。

死でもって怒りを表現してもならない。

倫理学で言う、「よく生きる」ことを、私たちは絶えず考えていく必要があると思います。