凩です。
絶賛本の整理中です。
師走ですしね。身辺整理ですね。

さて、中島義道氏の著書。

主にカントの哲学をメインに取り上げているものです。
大学の倫理学の授業で、これを読んでレポートを書くという課題がありました。懐かしいです。
教職課程の講義で、「授業はチャイムがなったら終わらせよ、休憩時間は生徒の時間だから、きちんと時間に終わるように計算せよ」という教えは今でも生きています。タイムイズマネーでもありますしね。

その先生いわく、中島氏は駅前の違法駐輪を見ると足で蹴り倒すなんて話がありましたが、審議はともかくさすがカント倫理学の先生です。

カントの言説のひとつに、嘘論文の話があります。(バンジャマン・コンスタン『政治的反動について』から)

ある人殺しが我々の友人を追いかけており、その友人は我々の家に逃げ込んできた。人殺しが我々に、その友人が逃げ込んできていないか尋ねられたときに、「彼はここにいない」と嘘をつくのは罪ではないだろうか。

カントの倫理学のに沿えば、ここで友人が殺されたとしても、真実を言う(彼が逃げ込んできたことは見ているので、いると答える)事が正しいというものです。

カントもこの極端ともいえる言説に対しては批判を受け、それでも、「いる」とは言っても、友人は裏口から逃げる可能性もある、とか、逆にもし嘘をついて「いない」と言って、友人は本当に家から抜け出していて家の周辺を探した人殺しに見つかってしまう可能性もあるという反論をしているとのことです。

私はカントの道徳法則は極論的ではあるが、もちろん嘘をつかないで済む世界の方が健全であるとは思います。
ただ、この場合は世の中の人々全員が善人である場合に限られるのではないかと思います。

私も極端な意見を述べるとしたら、嘘つきには嘘で出し抜いてしまってもいいのかもしれません。
まあ本当は、正々堂々と打ちのめしてやりたいですが。

もう一つ紹介します(F・W・カヴィーツェル『何故と問うなかれ』)。

肺病の妻は出産によって死ぬ危険があり、医師である夫は堕胎を勧めるが妻は頑として聞き入れない。
彼女はいくたびもの危機を脱して出産までこぎつけたが、死産であり、妻はそれを知る前に危篤状態に陥る。

夫のプランテラは悩みぬいた挙句、その日生まれた別の子をわが子と偽り妻に抱かせ、歓喜に震える妻はその一週間後に亡くなった。

プランテラは、妻に嘘をついたことを悔やみ自暴自棄となり医者という職業も捨ててしまう…。

これも考えさせられます。
今回は悪人はいません。皆幸せを願っています。でも、皆どこか不幸です。
それでも懸命に困難に立ち向かい答えを見いだそうとしています。
嘘でも幸せな道を探っています。

この世に真実はどれほどあるでしょうか。
カントのいう理屈は、このような感覚的な後悔、人間が心に宿している良心というものを言語化しているのかもしれませんね。